運命を変えた一曲、リストピアノソナタロ短調

大阪ゆきの飛行機の機内で、オーディオプログラムを聴いてくつろいでいたら、

突然思い出の曲が流れてきて、一瞬呼吸を忘れ、固まった。

その曲は、リストのピアノソナタロ短調。

昔、この曲を聴いて感銘を受け、私の運命が変わった、

などというと大袈裟なのだけど、私の道に強い光を与えてくれた曲だったのだ。

話は大昔にさかのぼるが、

私の母は音楽への愛情が深い人だったので、

私は幼少のころからなかなか恵まれた音楽教育を受けてきた。

ピアノと作曲とヴァイオリンを習い、合唱団にも所属して(マタイ受難曲なんぞを歌い)、毎日音楽三昧。

コンサートにもたくさん連れて行ってもらったし、両親がクリスチャンで毎週日曜日に教会に通っていたので、教会音楽へのなじみも深かった。

母は教育熱心で、旅先でもスタジオを借りてピアノの練習をしていたほどだった。

しかし、小学4年の時に中学受験か音楽の道かの選択を迫られ、その時、音楽の道を捨てることになった。

私はその後、中学受験をしていわゆる進学校に入学し、それからは勉強勉強の日々に。

学校が遠くて通学だけで体力を奪われたし、毎日大量に出される各教科の宿題をこなすのに必死だった。

そんななか、作曲も合唱団もヴァイオリンもやめたけど、ピアノだけは続けていて、

中学高校時代を通してコンクールなどを受けては、結果を残してもいた。

けれど、10歳の時既に音楽の道を捨てたということを自覚していた私は、

コンクール会場で「どこの音大に進むの?」などと聞かれても、キッパリ「音大には行きません」と答えていた。

コンクールでの皆の演奏(音大に進むであろう人たちの)に魅力を感じないというのもあったし、別世界のことだと思っていた。でももしかすると、そう自分に言い聞かせていただけなのかもしれない。本当は羨ましかったのかもしれない。

そして、高校三年になり。私は進路に迷っていた。

周りが大学受験一色のなか、私も文系大学を受験するつもりでいたのだが、

受けたい大学がないのだ。いや、憧れの大学はいくつかあった。

しかし、自分の行きたいと思える学部、学科がなかったのだ。

私はこの先、何をやっていきたいのだろう?何を学びたいのだろう?

いくら考えても答えがでなかった。何も考えず、偏差値基準で大学を選ぶべきなのか??

そんな時、運命を変える一曲に出会うことになる。

高3の夏、私はピアノリサイタルを聴きにでかけた。

そこで初めて聴いたリストのピアノソナタロ短調。

その演奏に感銘を受け、この曲の持つエネルギーに魂が震えた。

やっぱり私には音楽しかない、と思った。

リサイタル終了後、楽屋に行き、「ピアノを聴いてください」と頼み込んだ。

自分が感銘を受けたピアニストに認めてもらえたら…そしたら、音大に行く決心をしようと思ったのだ。

彼は快く受けいれてくれ、ほどなくして、私は東京にレッスンを受けにでかけた。

バッハの平均律やショパンのエチュード、スケルツォなど弾くと、彼は私に言った。

「君には才能がある。音大に行くべきだ」と。

しかも、日本の音大には向かないと思うから、(これは、充分自覚していた笑)と、

アメリカの音大受験を勧められ、そこから私の音大受験勉強が始まった。

なんせ、高3の夏であったので、突然の進路変更を周りのすべての人に驚かれ、反対された。

だけど、私の意志は強固だった。進むべき道が自分には見えていたから。

生活の中心が音楽になるということは、私にとって大きな歓びだった。

今までしたくてもできないことだったから、これからは大手を振って!という気分だったのだ。

次の年、シカゴとニューヨークの音大を受験し、渡米することになっていたのだが、

結局思うところがあって、私は東京の音大に進学した。

激動だったあの頃を思うと、懐かしいような恐ろしいような気持ちになる(笑)

しかし、リストのソナタロ短調に、あの時の氏の演奏に、与えられた勇気は計り知れない。

先月仙台に演奏に行った際、久しぶりに氏に再会してお酒を飲む機会に恵まれ、

改めて、この運命(もっといい表現があるような気がするのだが、言葉がみつからない)に感謝した。

畏敬の気持ちが大きすぎて、この曲をずっと弾けないままでいたのだけど、

仕事の譜読みが落ち着いたら、この曲に取り組んでみようかと思う。

そして、あの17歳の夏の日のように、師匠に聴いてもらいにいこうかな。