やっちゃんの話を書こうと思う。
私は生まれた時から小さな教会に通っていた。正確には母のお腹の中にいた頃から。両親がクリスチャンだったのだ。
同じ教会にやっちゃんという男の子がいた。歳は私より十ほど上。やっちゃんは生まれつき知的障害をもっていた。礼拝中に叫んだり泣いたりする。だけど毎週欠かさず両親と一緒に教会に来ていて、幼い私にはごく自然な風景に映っていた。
私も教会には毎週通っていたけれど、小学校高学年になりパタリと行かなくなった。中学受験のため、進学塾に通うようになったからだ。
イエス様の教えなんて半分も理解できない子供の私にとって、教会での時間・人間関係が無駄なものに思えた。偏差値教育で受験戦争を戦い、高みを目指すしか頭になかったのだ(今思えば塾の方が宗教っぽかった笑)。音楽の道も捨て必死で勉強し、大阪で一番の女子校に合格した。それがその時の自分の全てだった。
中学生になった私は久しぶりに教会へ行き、やっちゃんに再会した。
やっちゃんはもう二十代になっていた。
言動は三歳児のままだったけれど、身体は大人の男性。
やっちゃんは健全な成人男性と同じで女の子が大好きで、流行りのアイドルの写真を常に持ち歩いていた。
私が教会に行く度に、やっちゃんは私にまとわりついてきた。
礼拝では必ず私の隣の席に座り、話し(叫び)続ける。
聖書が読めないのは勿論、賛美歌は歌えない、牧師の説教も聞けない。
それだけでなく、彼は始終私の手を握って離さないのだ。
困るというよりも、本当に嫌だった。苦痛だった。
ヒゲづらのおじさんに手を握られるのは、いくら相手がやっちゃんとはいえ、思春期真っ只中の私にとっては耐えられなかった。
私はますます教会から遠ざかった。おもしろくなかったし、やっちゃんや教会の皆にも会いたくなかったのだ。その頃、私はとても傲慢だったと思う。
通っていた中学が仏教中学で、仏教の薫陶を受けたことも大きかった。
「牧師先生の言うことはキレイ事だし、やっちゃんにからまれたくないの!」
今思えば反抗期だったのだろう。キリスト教を研究している親にそんな風に言い放った。親は「やっちゃんに好かれるなんて喜ぶべきことだよ。可愛い子にしか寄っていかないんだから」なんて言って私をなだめたし、やっちゃんのお母さんも「志野ちゃんごめんね」と申しわけなさそうに言ってくれたが、私の教会嫌いは直らなかった。年に3回、クリスマスとお正月とイースターだけはかろうじて教会へ行ったが、信仰心なんてほとんどなかった。
そのまま、私は実家を離れ、東京へ進学した。
初めての独り暮らしは教会の女子寮。礼拝のオルガニストを務めるようになってから、少しずつ変わってきた。その寮は半年で退寮したのだけれど、教会への抵抗はなくなった。
大人になるといろんなことがある。楽しいことばかりではない。魂に傷がつくような思いもしたし挫折も味わった。そんな時私はひとり教会へ行くようになった。気持ちが安らかになるのだ。
家族と離れて暮らす孤独を埋めたかったのかもしれない。
帰省して親と共に教会へ行くと、やっちゃんが大喜びしてくれた。
あいかわらず私の隣りにべったりで手を握り、ひっきりなしに話しかけてくるのだが、彼は幾度となくこんなことを言う。
「志野(呼び捨て笑)、ボクがついてるから。大丈夫だから」
「志野が幸せになるよういつも祈っとるから」
その頃やっちゃんの障害は、緩やかに回復に向かっていたのだと思う。
それにしても家族や親友や恋人でもないのに、こんな風に言ってくれる人はいるだろうか。やっちゃんは私がいないときでも母に「おばちゃん、志野どうしてる?ボク祈ってるからって伝えて」と言ってくれているらしい。
東京で一人音楽の道を志す孤独な旅路の私には、沁みる言葉だった。
言霊のありがたみを痛い程感じた。
やっちゃんは星みたい…
ずっと遠いところから見守り優しく照らしてくれる、暗い夜空に光る小さな星。ふとそう思ったとき、涙が止まらなくなった。
そしてこれはイエス様の教え、キリスト教の愛そのものなのかと。
同時に親の思いも見えたような気がした。私に改めてキリスト教を語ったりはしなかったけれど、無言で導いてくれた。
競争社会のこの世の中では、やっちゃんのような人は社会的弱者。
だけれど本当に大切なことは競争社会で勝ち抜くことではない。
いかに精神的に豊かな生き方をするか。与えられた命の限り。
それを教えられた。気づくのが遅すぎるのだけれど。
最近、やっちゃんのお父さんが亡くなられたそうだ。
お父さん子だったやっちゃんは、悲しみに暮れているという。
そんなやっちゃんに、伝えたい。
「大丈夫。やっちゃんの幸せを私も天国のお父さんも祈っているからね」