いまを生きる

この世におけるすべてのものに、「永遠」はないと私は思っている。
結婚式で誓う「永遠の愛」というのも、何かが違うと思っている。
万物は流転するものであるからして、ただ一時もそこに留まっているものはない。そして、だからこそ、この世は儚くて美しい。 流転せんとするものを永遠に刻みつけようとする人間の弱くも強い力も、また美しいと思う。
ある一日。
若き女友達と美術館にでかけた。
乃木坂に新しくできた国立新美術館に「モディリアーニ展」を観にいったのだ。 彼女は「是非見せたかったの!」と、それはそれは美しい絵本を持ってきてくれた。 モディリアーニ展の前に美術館内のカフェに入り、語り合いつつ、 絵本に熱中していたら、時間がなくなってしまった。 ついでに、招待券の期限も切れていた。
おバカな二人である。
その後用事がある彼女と別れ、私はチケットを買い求め、一人でモディリアーニを味わった。 普段、美術館は一人で廻る方が好きなのだけれど、 その時の私は、彼女とシェアしたい気分だったので、少し残念だった。
そして、美術館を後にした私は、ふと思い立ち、東京ミッドタウン方面へ向った。
ミッドタウンの隣の敷地には、「ここが赤坂?」と驚くような森に囲まれたお屋敷がある。私はそこの奥様にピアノを教えていたことがあったのだ。 もう5年以上ご無沙汰していたのだけれど、なんだか最近気になっていたのだ。
唐突に訪問するのも失礼かな?と思いつつ、坂を下っていくと、 お屋敷のあった場所がそのまま更地になり、工事現場になっていたのだ! 私は絶句し、隣の彼女所有のギャラリーのインターホンを押した。すると、中から出てきたのは見知らぬ男性…。 彼いわく、彼女は少し前に亡くなられたらしい…。。
ああ、最近どうも彼女が気になっていたのは、虫の知らせだったのかと、 私は半分納得しつつ、どうしてもっと早く訪れなかったのかと悔やんだ。
彼女とはいろんな思い出がある。
当時90歳近いご高齢だったが、とても美しく品と知性に溢れていた彼女は、私の憧れだった。ピアノの部屋には、コルビジェの絵や本が無造作に置かれていた。
亡くなられたご主人が有名建築家で、コルビジェと親交が深い方だったのだ。ご自身もデザイナーで、私は彼女から多くのことを教わった。
ピアノを教えるのがあまり上手ではない私は、彼女のリクエストに答えて、よくいろんな曲を弾いてあげてたっけ。そのたびに彼女は、「あなたみたいなガールフレンドがいて嬉しいわ」と笑った。私のコンサートにもたびたび来てくれたし、彼女の軽井沢の別荘に伺ったこともあった。歳の離れた友人がいるということは、なんだかとても豊かなことに思えた。
しかし、私はもう二度と彼女に会うことができない。
力が抜けた私は、夕暮れ時のミッドタウンの緑地のベンチに座り込んだまま、しばらく動けなくなった。
人の命は短く、万物は流転するものだから、仕方ないことかもしれない。
しかし、流れゆく時の中、自分の胸に去来するものがあったとしたら。
その瞬間の想いをおざなりにせず、大事に生かしていくべきなのだと改めて気づかされた。
いまを生きるって、きっとそういうこと。

人生にファンタジーは必要か

昨年の今頃、私は英国オックスフォードの空の下にいた。
もうあれから1年もたつのか、という感慨とともに、
最近英国暮らしを懐かしく思い出すことが多くなった。
先日、テレビで映画「ナルニア国物語」をみた。
初めて観る映画だったけれど、郷愁の想いを呼び起こさせた。
そう、このぶっちぎりの英国ファンタジー「ナルニア国物語」は、オックスフォード大学教授C.S.ルイスが書いた物語。そこかしこに、英国らしさ、オックスフォードの空気感が散りばめられているのである。
オックスフォードは学問の街であると同時に、「不思議の国のアリス」「ナルニア国物語」「ロードオブザリング」が生まれたファンタジーの街でもある。三作品ともこの街に学ぶ学者が紡いだ物語だ。私はオックスフォード大学に在学していた父と共に、昼間は大学へ、夜はパブへと、にわか大学生のような生活をしていた。昔からほとんど変わらないであろうこの街で、まるで彼らの生きた青春と同じような幸せな時間を過ごし、オックスフォードという街の魅力を心ゆくまで味わっていた気がする。
この街には、なんというか時空間を越えてしまうような、なんだか不思議な雰囲気があるのだ。昼下がりの街角で、あるいは古いパブの柱にかかる掛け時計を見て、はたまた夜9時過ぎにゆっくりと沈みゆく太陽を眺めながら、私は不思議な想いにとらわれたものだ。この街のもつ歴史(市制1000年!)がそうさせるのか、自然と共存するがゆえなのかよく分からないのだけれど…。
ところで、ファンタジーって何なのでしょう。
万年、地に足つけない生き方をしている私は、おまえの人生はファンタジーそのものだろ!とつっこまれそうだけれど(笑)、
「ここではないどこか」…その思いが私に力と希望を与えてくれている。
言ってみれば、ファンタジーとは「究極の旅」だろうか。
私は人生にファンタジーがないと生きていけないような気がする。
まぁ、結局ファンタジーはファンタジーであって、現実に戻ってこなきゃいけない時もあり、
「これはファンタジーなんだ」と自分に言い聞かせたりもするけれど、
それは別物として、人生の大切なエッセンスといおうか…。
(嗚呼、このあたりでもうニヤニヤしている友人達の顔が浮かぶ・・・)
そんなこんなで、最近ファンタジーについて考えております。
前述した本を片っ端から読んでみようかな?
現実逃避ともいうかもしれないけれど(笑)

森下洋子という花

松山バレエ団60周年記念公演「眠れる森の美女」公演を観てきました。
松山バレエ団の公演は、幼い頃に観たきり、実に20年ぶり。
主演オーロラ姫は森下洋子さん。
60歳を迎えようとする今も第一線で活躍しておられる彼女。
実は、直前に足を怪我されて、今日の舞台を無事踊りきれるか綱渡り状態との内部情報を聞きました。オーロラ姫の難しさがわかる分、不安な思いで幕があがるのを待ちました。
しかし、彼女が登場した途端、舞台の空気がガラリと変わりました。
そこには、輝くばかりに美しく可憐な、16歳のオーロラ姫がいました。
誰よりも華奢で小さく、手足が長くて、腕と指の動きが圧倒的に美しくて。
一幕冒頭のローズアダージオ。私は久しぶりに心から感動する踊りに「出逢った」と思いました。そして、ものすごい場所に、時に、居合わせているという感慨に襲われました。
もちろん、今の若手に彼女より素晴らしいテクニックを持った人はたくさんいるでしょう。
でも、真の芸術の価値はそういうものではない筈。
少なくとも私は、いわゆるテクニシャンダンサーを観て感動することはありません。
彼女の踊りからは、宇宙の真理が感じられるのです。
「眠りの森の姫」がこんなに深く、素晴らしいメッセージ性を持ったバレエであることに、彼女のオーロラ姫を観て初めて気づきました。
モーツァルトの、澄み切った青空のごときメロディーの中に哀しみが内包されているように、オーロラ姫の「真・善・美」は、ただ美しいだけのお姫様ではない深みが感じられました。そう、モーツァルトの「魔笛」の世界観にも似ているような…。
実は数日前、彼女の全盛期であろう約30年前の映像を観たのですが、
その時よりも確実に進化していることに、驚きを隠せませんでした。
可憐さはそのままに、表現の深み・幅がどんどん広がり、目に見えない芸術の頂点に到達せんとする洋子さん。
歳をおうごとに、透明になっていく人がいるのですね。
以前、谷川俊太郎さんにお会いした時にも同じことを思いました。
余計な装飾や力みがそぎ落とされ、ただシンプルな魂だけが残るというか、、、
ただ無心に踊る彼女は、羽の生えた天使のごとき存在で、
そのまま天への階段を昇っていくかのように見えるのです。
先月、「存在感は自分の責任」というバレエミストレスの話の日記を書きました。
彼女は森下洋子さんと共に牧阿佐美バレエ団の黄金時代を築いた方。
同じ時代を生き抜き、バレエに身も心も捧げてきた森下洋子さんと大原永子さん。
時を同じくして、全く同じことを私に語りかけてきてくださったのです。
偶然だけれど、これは必然だなと。
実は最近、自分の将来が見えず、目標を見失いつつあったのです。
でも、こんなに素晴らしい60代の芸術家・女性がいらっしゃるということに、
大いに励まされ、希望を与えて頂きました。感謝でいっぱいです。
終演後、バックステージで松山バレエ団から招待客へのご挨拶がありました。
そこでの、清水哲太郎さんのお話も忘れずに胸に留めておこうと思います。
握手して頂いた、森下洋子さんの華奢だけど熱く力強い手の感覚も。
数年前に読んだ彼女の著書に、こんな言葉が記されていたことを記憶しています。
「私は人が1回やってできることを、20回練習しなければできませんでした。でもだからこそ、バレリーナになれたのかもしれません」と。
「芸術に生きる」ということを改めて教わった一日でした。